プラネテス4巻(amazon


自分はインターネットを何年もやっていて、たまに本の感想なんかを書いて amazon へのリンクを貼っちゃってるわけなんですけど、別にカルチャーをきっかけとして誰かと何かを共有したり、繋がりあったりしたいわけではありません。
あくまで僕が何かを書くのは、自分にとっての正道を進んでいることを再確認するためであり、現在位置を推測ためであり、具体的な言葉にして定型を持たせたい、という、極々個人的な欲求から来るものです。だから、あんまり下手に人に薦めてはいけないようなものでも、他人のことはほとんど意に介さず、取り扱っています。
と、いいつつも、「だったらウェブじゃなくていいじゃん。ローカルで書いてりゃいいじゃん」という疑問の声にどうしても答えられないので、単に僕は求道者的なスタイルを取りたいだけなのだろうなァ、と思います、多分。

求道者スタイルの一環として、今まで、抱えてきた負荷を誰にもさらけだすことなく(話すことと、打ち明けることと、さらけだすことは違います)、指摘されるまで別に負荷とも思わず同居させてきました(同居させてる、っていうのも指摘されるまで分からなかった)。これがスタイルとしての同居許可だったのなら、そのうち、暴発するのかな、と思い、ウヒャーと恐れおののく夜もあったりします。
しかし、というのも自分の勝手な解釈で、僕は元々負荷がすりぬけていく性質なのかもしれません。どっちなのか分からないです。分かりたいんですが、なかなか……。
自分に常に自覚的にありたいのですが、難しいですね。「自覚的である」みたいな考えや確信が生まれた途端、目は曇りやすくなって、自覚的であると決め付けた事柄自体が間違ってる可能性を追わなくなりますし……。くわばら、くわばら。

プラネテス4巻発売にあたって、1巻から読み直し、ハチマキの人間性の変化を追っていたところ、以上のようなことを思いました。

しかしながら、僕のなかでは、「全部オレのもんだ(2巻108P)」と「愛し合うことだけはやめられない(4巻321P)」が諍いも反発も相反も無く同居してるので、ハチマキの変質にはさほど思うところはありませんでした。単と複に区別をつけられない、読み取れない自分が鈍いだけかもしれません。地球外での開眼も無いしね。
面白くて、思考を強いられて、衝撃的な作品だとは思うんですけど、それでも距離を取ってしまうのは、「主人公に感情移入できない。俺とこいつは似てても、まったくの別物だ」と、さめた目で見てしまうから、です。


久々に自己完結文章を書いたらえらい楽しく、自分にあっている執筆形態を再確認できました。そこで、これよりナフは、自己完結で終わる活動と、『ドクデス』副主催、『獄門島漫画祭り』主催という、他人とのコミュニケーションとしての活動を、互いに独立させたまま影響を与えあわないまま無関係なまま両立させていきます。たぶん出来ると思う。

二つの活動を見比べてみると、矛盾しあっていたり、言うことが破綻していたりしますが、気にしないでください。また、自己完結パートを読んでも意味が分からないかもしれませんが、自己完結と銘打っているので、これまた気にしないでください。